不妊治療

   不妊治療の日々

不妊治療について

私はなぜか子供の頃から、お母さんにあこがれる子供でありながら
不妊治療をすることになるなんて…。

そして、私の不妊治療の始まりはいつの事か…と考えたときに
はっきりとしないのが実際の感想です。

初潮は10歳と早かったですが、覚えているかぎりずっと
生理不順だったように思います。
月経周期がとても長いのです。平均50〜60日。

20歳を過ぎた頃これではいけないのではないか?と思いはじめ、
姉の妊娠を期に、産婦人科を受診することになりました。
これが治療の始まりと言えば始まりです。
29歳のときに結婚。

結婚前のブライダルチェックでは何も問題ないと言われていたので、
楽観的になっていましたが、結婚して10ヶ月過ぎても妊娠する気配はなく、
30歳も目前にしていたので、詳しい検査をすることにしました。

それから始まる長く辛い不妊治療の心の支えになっているのが、
検査を受ける前夜、主人の言ってくれた言葉です。

「もし、検査をして問題があったとしても、それは何か悪いことをして
そうなったわけじゃない。もし俺に問題があっても堂々としていたいと思う。
もし、ひまわり(私)に問題があったとしても堂々としていて欲しい。」と。

結果、分かったのが黄体機能不全、多嚢胞性卵巣症候群、そして、
フーナーテストの結果子宮内には精子が1匹もいないということでした。

主人には何の問題もありませんでした。

前夜の主人の言葉は涙が出るほど嬉しかった、でもやっぱり不妊原因が
私だけというのは辛かった…。

フーナーテストの結果が全くダメということで、すぐにAIHをすすめられました。
主人もすぐに承諾してくれて、3回トライしましたが、うまくいきませんでした。

インターネットや本などでも、治療のこと、病気のことをいろいろと調べました。
多嚢胞性卵巣症候群だと、妊娠は難しいかも…ということを
強く考えるようになったのもこの頃でした。
もっと詳しい検査をしたくて不妊専門の病院に転院することにしました。

そこで卵管造影、子宮鏡検査、血液検査をし、新たに分かったのが、
高プロラクチン血症と子宮入り口にポリープがあるということでした。

検査のたびに病名が増えていくことに自信をなくしていく日々でした。

自宅から病院まで電車で40分。

病院からの帰り道、本屋に立ち寄ることも日課のようになっていました。
そこで漢方薬が不妊にいいということを知りました。

ツムラの漢方薬などはどこの病院でも処方してもらえるものですが、
東京に不妊専門の漢方診療所があることを見つけました。

主人も治療にはとても協力的でしたし、治療には年齢的な
限界があることもよく理解してくれていました。

本当に子供が欲しいなら大阪でも東京でも、行ってみればいいと
背中を押してくれて、銀座玄和堂診療所に通うことになります。

産婦人科とは違い、話をゆっくりと時間をかけて聞いてくれて、
おなかを触って生活習慣や食生活のことまで、
こと細かく指導してくださり、何より私が元気をもらえるような
言葉をたくさんかけていただきました。

毎日1時間かけて煎じる漢方薬を飲むこともすぐに
生活の一部となっていきました。

同時に転院した病院でも更にAIHを3回しましたが、
妊娠にはいたりませんでした。

AIHも合計で6回。
そろそろステップアップを考える時期にきていました。

主人とも時間をかけて話し合い、IVFに踏み切ることにしました。

初めて不妊検査をしてちょうど1年過ぎたころでした。
6回目のAIHが失敗に終わって生理が始まり、
その2日目からスプレキュアと
排卵誘発の注射をする毎日が始まりました。

多嚢胞性卵巣ということもあり、注射を打ち始めてから
すぐに卵胞はどんどん大きくなりすぎ、
注射の量を通常の半分にしました。

OHSSの症状も出始めていましたが、なんとか採卵、
16個中8個受精してくれました。

受精卵ができたことは、とても嬉しかったのを今でも覚えています。
2日後に3個の受精卵を移植しました。

OHSSはどんどんひどくなり、移植から8日目で
入院することになりました。

OHSSは想像以上に苦しいものでした。

おなかに腹水がどんどんたまり、ウエストは92cmにもなりました。
通常うずらの卵くらいの大きさの卵巣は、
左右とも12cm程に腫れていました。

胸まで苦しくなり、呼吸は浅くしかできず、胃は圧迫されて
手で握られているかのような激痛でした。

24間点滴をし、導尿をして寝たきりの生活になりました。
でも、嬉しいことに生理はなかなか始まりませんでした。

妊娠していました。

朝8時、回診の時間にはまだまだ時間があるのに、
担当の先生が妊娠反応がでたことを教えにきてくれました。

はじめは信じられませんでしたが、先生が帰ってから、
おなかに手を当てて涙が止まりませんでした。

よく、こんなに私の状態の最悪の時におなかに来てくれた赤ちゃん。
赤ちゃんに感謝、感謝の気持ちでいっぱいでした。

その後もOHSSがおさまるまで2ヶ月間の入院生活をし、
流産や早産の危険も乗り越えて9ヶ月後、
元気な女の子を出産しました。
子供がいないとき、二人目不妊や三人目不妊で
治療をしている人を正直、もういいじゃないと思ったこともありました。

でも、子供はどうしても二人欲しいと思っていました。

私自身4人兄弟で育って、兄弟のいる楽しさは誰よりも
分かっていたし、大人になってから、兄弟がいるというのは
何よりも心強いことも知っていたからです。

仕事の忙しい主人に代わって、採卵や移植の日に病院への
送り迎えをしてくれたのも姉でした。

一人目のとき、3個移植した受精卵のうち妊娠したのは
一人の赤ちゃんでした。

もしそれが双子だったら、私の不妊治療はここで
終わっていたと思います。

でも、長女が1歳6ヶ月のときから二人目不妊の治療を
始めることになりました。

その時は、長女のときに初めてのIVFで授かったことを考え、
移植すれば妊娠できると思っていました。

しかし、二人目の治療は一人目のとき以上に難しいものになっていきました。
まずは長女のときに凍結した胚を2個ずつ2回に分けて
計4個移植しましたが、妊娠できませんでした。

同じ病院で採卵…と考えましたが、その病院は先生の方針で
診察に小さい子供を連れてくることを禁止していました。

やむなく出産した病院で採卵からはじめることになりました。

総合病院で産科も併設しているので、子連れでも
問題はありませんでしたが、不妊専門病院でないことの
リスクは後々知ることになりました。
IVFができる病院ではありましたが、担当の先生も
お産、検診、子宮がん、手術など、いろいろな仕事を
される関係なのでしょうか…。

正直、不妊治療についてもっといろいろな勉強をし、
いろいろな提案をして欲しかった。
という思いでいっぱいでした。

先生の話しぶりから、排卵誘発の注射はどの患者にも同じように
同じ量と日数打つことを聞かされました。
前回OHSSを経験しているにもかかわらず…です。

嫌な予感は的中し、採卵前に卵胞は40個近くできてしまい、
おなかも随分目立つくらいに張ってきていました。

何とか採卵はできたものの、移植にはリスクがあるという説明。
でも凍結卵では妊娠できないのではないか…という不安から、
移植することに決断。

なんとか移植はしたものの、移植後の黄体補充を全くしないという
先生からの言葉。

私は黄体機能不全もあるのに…。

HCGはOHSSを悪化させることは分かっているけど、
他にも黄体補充の薬はあるのに…。

納得のいかないまま判定日の前に生理が始まりました。

どうしてもっと強く、先生に黄体補充をしてくれるように頼むことが
できなかったのか、自分が情けなくなりました。

受精卵のことを、たまご、たまごといいますが、
私たち夫婦にとって、それは赤ちゃんそのものと同じなのに。

着床しなかったことは、おなかの中で赤ちゃんを
死なせてしまったのだという気持ちでいっぱいでした。

それからは、凍結胚盤胞を2個、1個、1個と計3回
移植しましたが、妊娠しませんでした。

このときも移植周期の生理開始の5日目からクロミッドを飲み、
排卵させて移植する方法をとりました。

凍結胚のときは、自然の排卵を待つか、ホルモン補充周期での
移植なのでは?
という質問にも、クロミッド以外の方法はないという返事。

この病院では妊娠できないという思いはどんどん強くなっていきました。

そしてまた転院することに。
インターネットで調べ、主人の会社近くの病院に
いく事に決めました。

初めて相談に行ったときにも、移植には2ステップ、
胚盤胞移植、アシストハッチングなどもするし、
移植には凍結してホルモン補充周期でするというお話でした。

そこで、早速採卵17個中12個受精。

いままでで一番多い受精卵の数に喜びました。

グレードも教科書レベルというお墨付き。

OHSSの症状もありましたが、今まででは一番楽な感じでした。
2日後に2個の受精卵を移植しましたが、
今回も妊娠にはいたりませんでした。

長女の時には始めての移植で妊娠したのに、
どういうことなんだろう…。

不安といら立ちと混じった気持ちでいっぱいでしたが、
凍結した胚はまだ9個ありましたし、次ははじめての
ホルモン補充周期での移植に期待していました。

移植の全周期からのスプレキュアと生理開始から
エストラーナの貼り薬。

そして胚盤胞を2個移植。

でも、また結果は失敗でした。

今まで移植は1個か、2個という先生の方針でしたが、
次回は3個移植してもらうようお願いしました。

先生もこれだけ胚の状態がいいのに妊娠できないので、
受けてくれることになりましたが、融解してみると、一つは状態が悪く
結局今回も2個の胚盤胞を移植。

でも今回はアシストハッチングもしてもらいました。

それでも、やっぱりだめでした。
もう疲れた。

これが正直な気持ちでした。

あれだけ欲しくて生んだ長女も治療のために振り回しているし、
何より、いらいらをぶつけたりしてしまっている。

今の自分は何をしているんだろう…。

主人もあと4個受精卵があるものの、このまま続けても
いい結果は出ないのではないかと、気を落している。

生活のほとんどを治療に費やし、お金も随分使った。

もうどうしていいのか分からなくなっていました。

そんな私たち夫婦の気持ちを前向きにしてくれたのは長女でした。

前回の移植の後、「ママのおなかには小さな赤ちゃんがいるから、
おなかに乗らないでね。」と話していました。

もうすぐ3歳になる長女は生理がきてがっかりしている私たちに
「ママ、赤ちゃんいつ生んでくれるの?」と。

私は「赤ちゃんは赤ちゃんのお家に帰ったんだって。」と言うしか
ありませんでした。

長女は赤ちゃんが生まれることをとても期待していたようで、
ぽろぽろと泣きだしました。

そして2〜3日すると、ぱったりと赤ちゃんの話をするのをやめました。

この話を主人にすると、主人もなんとも言えない
気持ちになり涙ながらに、
もう一度がんばってみようということを確認しあいました。
でも、どうするか。

初心に戻って、妊娠できる体を作らないといけない。
と思いました。

長女を妊娠するまでは、漢方診療所に通い、体重に気をつけ、
食事、運動を心がけていた日々のことをすっかりおろそかに
していた自分を反省しました。

ウォーキング、トイレ掃除、写経など、生活のほとんどを、
病院任せにするのではなく、自分でできることの
努力をしていました。

でも、育児をしながらの不妊治療は、なかなか思うように
自分の時間をとれずイライラも募っていました。

でも、育児を言い訳にするのはやめようと思いました。

きっと、どこかでこれから私のおなかにやってきてくれる赤ちゃんは
私のこれからの努力を見ていてくれるはず。

もう一度東京の診療所に通い、漢方薬を煎じ、体重を管理することから
はじめることにしました。

長女のとき、初めての移植で授かったことで、移植すれば
妊娠できると考えていた自分を恥ずかしく思いました。

あの頃、子供を授かるためにしていた努力をせずに、
病院にだけ頼っていた自分がいたことを。
あと4個ある受精卵は大事に残したまま、まずは診療所の
先生の指導の下、移植にベストは体作りからやり直そうと
決心しました。

二人目不妊の治療を始めて一度も妊娠することができていませんが、
次の移植は10回目になります。

経済的なことを考えても最後の移植になるかもしれません。

後悔のない様に、二人目を迎える準備をしていきたいと思っています。

そして、いつか我が家の4人目の家族となってくれる日を
パパとおねえちゃんと待っています。


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